現地に行っていろいろなものを見てくるフィールドワーク系ブログ

関東大震災から100年 東京都慰霊堂に行ってきました

探訪日:2023年(令和5年)8月20日(日曜日)

探訪番号:32

投稿日:2023年9月1日

ブログ分類:史跡・旧跡めぐりシリーズ #4

今日9月1日は「防災の日」です。

なぜ9月1日が「防災の日」になっているのかというと、関東大震災の発生日であることと、9月は台風の発生シーズンでもあることから、災害に対する意識を高めるため、1960年に閣議決定されました。

関東大震災(大正関東地震)は、1923年(大正12年)9月1日土曜日11時58分に発生、震源地は神奈川県松田町付近、震源の深さ25km、マグニチュード7.9という巨大地震でした。

最大震度は6とされていますが、当時は震度7というのは設定されておらず、現在の基準にすれば関東南部の多くの地域で震度7であったと推定されています。

死者は明治以降の地震としては最悪の10万5000人、その9割が焼死とされています。

昼食どきの地震ということに加え、当日は日本海側を台風が北上中で、関東地方も強風が吹いていたこともあり、東京を中心に大規模な火災が発生しました。

ということで、今日で関東大震災の発生からちょうど100周年、ということになります。

関東大震災と東京大空襲の犠牲者を供養

東京市(当時)では、6万8000人もの人が亡くなりましたが、そのうちの半分以上の3万8000人が、総武本線・両国橋駅(今の両国駅)近くの陸軍被服廠跡地で焼け死んでいます。

被服廠とは、軍服の製造や保管をする施設で、大正8年に赤羽に移転、その跡地を東京市が取得し、都市公園として整備している最中に震災が発生しました。

広い土地であったことから、被災した4万を超える人が避難してきたものの、強風で煽られた大火の火が家財道具に燃え移るなどして、避難してきた人のほとんどが炎に巻き込まれ、亡くなってしまったのです。

震災後、二度とこのような惨禍が起きないことを祈念し、昭和7年に被服廠跡地に「震災記念堂」という施設が完成、震災の犠牲者5万8000人の遺骨が収められました。

さらに、震災記念堂のある本所・深川地域は、昭和20年にアメリカ軍により非人道的な空襲を受け、7万を超える人が亡くなりました。

戦後、空襲の犠牲者の遺骨も収められ、昭和26年には「東京都慰霊堂」と改称されて現在に至っています。

被服廠跡地は、その後公園として整備され、現在は都立横網町公園となっています。

【写真】横網町公園の入り口です。「東京都慰霊堂」と書かれた石碑も建っていました。JR総武線の両国駅から歩いてすぐのところにあります。

撮影地:東京都墨田区横網

【写真】東京都慰霊堂の正面です。築地本願寺などを設計した伊東忠太博士が中心となって設計した建物です。

撮影地:東京都墨田区横網(横網町公園内)

【写真】裏手には、納骨室のある三重塔が建っていました。日本の建築のルーツを求めて、中国やインド、トルコで学んだ伊東博士らしい、アジア様式の塔です。

撮影地:東京都墨田区横網(横網町公園内)

【写真】慰霊堂の入り口には、関東大震災100年と書かれた幕もかかっていました。

撮影地:東京都墨田区横網(横網町公園内)

【写真】全体的には仏教寺院の様式がベースになっているものの、神社やキリスト教の教会の様式も取り入れられていて、宗派に関わりなくお参りできるような造りになっています。

撮影地:東京都墨田区横網(東京都慰霊堂内)

【写真】両脇の壁には、関東大震災や東京大空襲の惨禍を伝える絵画が飾られていました。

撮影地:東京都墨田区横網(東京都慰霊堂内)

【写真】東京都慰霊堂は特定の宗教施設ではないのですが、震災百年の御朱印がありました。慰霊堂脇の横網町公園管理所というところでいただけました。1000円です。

公園内には、慰霊堂とは別に、東京都復興記念館という施設もあり、そちらにも行ってきましたので、次回のブログでリポートします。