探訪日:2023年(令和5年)8月20日(日曜日)
探訪番号:34
投稿日:2023年9月10日
ブログ分類:橋を渡るシリーズ #2
前回、前々回のブログでは、東京都墨田区の都立横網町公園内にある東京都慰霊堂と東京都復興記念館に行ったことを書きました。
これらの施設は、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を慰霊し、その惨状や復興の様子を記念するために建てられたものでした。
横網町公園から北に2kmくらい行ったところに、言問橋(ことといばし)という橋が隅田川に架かっています。
東京都復興記念館を見学した後、言問橋まで歩いて行きました。
言問橋は、関東大震災後の帝都復興計画の一環として、1928年(昭和3年)に完成しました。それまでは周辺に橋は無く、渡し船で対岸と行き来していたそうです。今の交通量から考えると、信じられませんね。
【写真】墨田区側から撮りました。車道は片側2車線、歩道も広く取られていて、立派な橋です。
【写真】台東区側に渡って撮影すると、東京スカイツリーがよく見えました。
【写真】ゲルバートラス構造と呼ばれる橋梁です。東京の両国橋、大阪の天満橋とならんで、三大ゲルバー橋と呼ばれているそうです。
言問橋とは、少しユニークな名前ですよね。これは、平安時代の貴族、在原業平が詠んだ短歌「名にし負はば いざこと(言)問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」に由来しているんです。
この歌は、業平が今の言問橋付近の隅田川で渡し舟に乗るときに、船頭さんに「これはなんて鳥?」と聞いたら「都鳥だよ」という答えがあったので詠んだものなんです。
ところで、第2次世界大戦末期、1945年(昭和20年)3月10日の真夜中に、東京大空襲というアメリカ軍による無差別爆撃がありました。
これは、隅田川の両岸地域、今の墨田区、江東区、台東区、中央区あたりの一帯を焼き尽くす、大規模爆撃だったんです。
当時、隅田川の両岸に住んでいて被災した人たちに、それぞれ隅田川の向こう岸に行けば戦火を逃れられる、という情報が流れたみたいで、両岸から言問橋に人が殺到してしまい、身動きができなくなって、多くの人が橋の上で焼け死んだそうです。
また、多くの人が熱から逃れるために隅田川に飛び込んだそうですが、それで助かった人はほとんどいなかったそうです。
夜が明けると、言問橋の上には、数え切れない黒焦げの屍体が折重なり、屍体の上を歩かないと橋を渡れなかったそうです。
また、隅田川には多数の屍体が浮いていて、地獄のような光景だったそうです。犠牲者があまりに多く、正確な数字はわからないそうですが、推定で5千人から1万人の人が言問橋で亡くなったと言われています。
今は、穏やかに流れる隅田川に架かる、のんびりした橋ですが、たった80年近く前にはそんな悲しい出来事があったのです。
【写真】戦後、道路は舗装され、欄干の改修も実施されましたが、親柱は当時のままです。黒ずんでいるのは、当時の犠牲者の血や脂が変色したものと言われています。
【写真】橋のたもとには、1992年の改修工事のときに切り取られた当時の縁石が保存されていました。
【写真】慰霊碑もありました。今の平和は、多くの人の犠牲の上に成り立っているのだな〜、という思いを改めて抱き、手を合わせました。