探訪日:2023年(令和5年)10月14日(土曜日)
探訪番号:41
投稿日:2023年10月19日
ブログ分類:彫刻・オブジェを見るシリーズ #2
東京・上野公園といえば、上野駅前に広がる広大な公園で、園内には美術館や博物館、動物園などの文化施設が集まっていて、都会の中の憩いの場所として親しまれていますよね〜。
その上野公園の広大な土地はもともと何だったんでしょうか?
実は江戸時代は、徳川家の菩提寺である東叡山寛永寺の境内だったんです。
ところが、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が朝廷に政権を返上する大政奉還を行うと、その後の新しい政治体制の主導権を争って、旧幕府軍と新政府軍が各地で戦いを繰り広げます。
そのうちの一つが「上野戦争」と呼ばれるものです。
1868年4月に、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府軍の勝海舟が話し合って、江戸城を戦うことなく新政府軍に引き渡すという、いわゆる無血開城が行われます。
これに不満を持った旧幕府軍の武士が「彰義隊」というグループを結成し、上野の寛永寺に立て籠もり、暴動を繰り返すなど抵抗しますが、新政府軍によってたった半日で制圧されてしまいます。
この時、寛永寺は旧幕府軍をかくまったとしてほとんどの境内地を没収されてしまったのです。
その後、明治6年(1873年)に太政官布達により都市公園制度がスタート、同年10月19日、寛永寺の境内だった場所に上野公園が開園しました。
つまり、今日で上野公園の開園からちょうど150周年ということになります!
【写真】公園内に、150周年を知らせる垂れ幕がありました。
上野公園の正式名称は「上野恩賜公園」と言います。
「恩賜(おんし)」とは、身分の高い人から頂くもの、とくに天皇陛下から頂くもの、という意味があります。
上野公園は明治23年に御料地(天皇が所有する土地)となり、大正13年に東京市(当時)に払い下げられたため、それ以降は「上野恩賜公園」という名称になりました。
上野公園内には、さまざまな銅像が建っていますが、その中から3つを見てきました。
まず、何といっても、上野公園に欠かせない人物といえば、アントニウス・ボードワン博士でしょう。
ボードワン博士は、オランダ人の軍医です。日本に医学を広めるため、江戸幕府の招きで来日しました。
実は、上野戦争で焼け野原になった上野の山には、大学東校(今の東京大学医学部)と附属病院を建設する予定でした。
しかし、上野の自然が失われるのを危惧したボードワン博士は公園として指定することを提案し、明治政府もそれを受け入れました。
その功績を讃え、上野公園開園100年を記念して、1973年に公園内に博士の銅像が設置されたんです。
【写真】あまり目立たないところにひっそりと建つボードワン博士の像です。医者であり、大学東校でも教鞭をふるったというのに、大学や病院建設より公園建設を優先させたのはすごいですよね〜。
実はこのボードワン博士像、2006年までは立派な髭をたくわえた像でした。
しかし、なんと、その像は、その後の研究で弟で神戸の初代オランダ領事を務めたアルベルト・ボードワンの肖像だったことが判明、2006年に兄アントニウスの肖像であらためて建て替えられた、という経緯があったんです。
弟の像はその後オランダ大使館に保管されていましたが、2010年に神戸の地に”里帰り”を果たし、現在はポートアイランド内の公園に建っているそうです。
【写真】お顔のアップを撮りました。かなりのイケメンです!
続いては、国立科学博物館の前の緑地の中に建つ、野口英世像です。
野口英世は言わずと知れた世界的な細菌学者で、説明は不要ですよね。現在の千円札の肖像にも採用されています。
1928年、アフリカで黄熱病というウイルス性の病気の研究をしていた際、自身も感染してしまい、51歳という若さで亡くなってしまいます。
私は個人的には、命日と私の誕生日が同じということで覚えていました。
【写真】試験管を見る野口博士の像です。
【写真】千円札の肖像とはちょっと印象が違う気も‥。千円札の肖像は2004年に夏目漱石からバトンタッチ。来年からは北里柴三郎の新札の発行が予定されています。
最後は、何といっても、上野公園の銅像といえば一番有名なのは西郷隆盛でしょう。
西郷隆盛は、上野戦争でも薩摩藩士を率いて戦ったそうです。
【写真】高村光雲による銅像で、やはり何度見ても立派です!
【写真】横からもパチリ!頭部のデカさと恰幅の良さは、私と同じ特徴です(実際の西郷さんはこんなに太っていなかった、という説もあります)。
シュッとしたボードワン博士像もいいけど、私は西郷さんの像に親近感…(*^o^*)
【写真】スマホをズームしてお顔のアップも。うーん、こちらもなかなかのイケメンですね。