探訪日:2023年(令和5年)10月14日(土曜日)
探訪番号:46
投稿日:2023年11月5日
ブログ分類:パワースポットめぐりシリーズ #8
ここ5回のブログでは、東京・上野公園内の様々なスポットを巡った記事を書いてきました。今回は、そのシリーズの最後です。
以前のブログでも書いたように、上野公園はもともと寛永寺の境内地でした。上野戦争によって境内地は狭まりましたが、上野公園内には寛永寺の伽藍(お寺の建物群)がいくつか残っています。
その一つが、清水観音堂です。
寛永寺は天海(てんかい)というお坊さんによって創建されました。江戸幕府3代将軍の徳川家光によって、鬼門封じとしてお寺の創建を依頼されたのです。
鬼門とは北東の方角を指し、昔の日本では鬼が出入りする方角として、祟りや災いが入ってくる、と考えられていました。
それで、鬼門の方角に神社や寺院を置いて、祟りや災いが入ってこないようにしたんです。
京都で言うと、京都御所の北東に位置する比叡山延暦寺が鬼門封じのお寺となっています。
天海もそれに倣って、江戸城の北東の方角にある上野に寛永寺を開いたんです。寛永寺は山号を「東叡山」といいますが、これも「関東にある比叡山」という意味合いがあるんです。
天海は寛永寺を延暦寺に見立てただけでなく、不忍池を琵琶湖を見立て、琵琶湖の竹生島にある、辯財天を祀る宝巌寺にあやかって、不忍池にも人工島を作って辯天堂を建てたりしました。
そして、京都の清水寺から奉納された千手観音像をお祀りするため、清水寺のような、崖地に柱を立てて神社や寺院を建てる、懸造と呼ばれる建築様式でお堂を建てました。
【写真】寛永寺清水観音堂の全景です。公園内の高台に建っていて、京都の清水寺と同じような懸造の建築手法が使われています。
【写真】京都の清水寺のように、高台に張り出した舞台がありました。さすがに清水寺よりはこじんまりしていますが、なかなか良い眺めです。
寛永寺清水観音堂には、「月の松」という、枝が月のようにくるりと丸まった松の木があります。
この松は、江戸時代の植木職人が人工的に作り上げたと言われていて、歌川広重の浮世絵にも描かれています。
【写真】実は江戸時代の月の松は、明治時代に台風で損壊してしまいました。現在の月の松は、2012年に150年ぶりに復元されたものです。復元にあたり、植木職人の方が3年もの年月をかけて作り上げたそうです。
【写真】スマホのカメラをズームしましたら、月の松の輪っかの中に不忍池辯天堂が見えました!
【写真】舞台の上では、たくさんの観光客の方が月の松をバックに写真を撮られていました。
【写真】不忍池辯天堂にも行ってお参りしました。
上野の清水観音堂をお参りしていましたら、やっぱり京都の清水寺にも行きたいな、という思いが湧いて、「そうだ!京都へ行こう!」という感じで先日京都に行ってきました!
続きは明日のブログで!