探訪日:2023年(令和5年)12月18日(月曜日)
探訪番号:57
投稿日:2023年12月25日
ブログ分類:美術館めぐりシリーズ #2
今年は関東大震災が発生してから100周年の年でした。
関東大震災は東京を中心に、関東南部地方に多大な損害を与えただけでなく、その後の社会に変革をもたらす巨大地震でした。
当ブログでも、関東大震災の惨禍を後世に伝えるための施設である東京都慰霊堂と東京都復興記念館に行った記事を書きました。
それだけでなく、6月のブログで取り上げた日本初のプロ野球チームである日本運動協会の本拠地球場だった芝浦球場は、関東大震災の救援物資の集積場として陸軍に接収されたためチームは解散を余儀なくされました。
同じく6月のブログで取り上げた牧野記念庭園は、日本の植物分類学の父と言われる牧野富太郎が、関東大震災を契機に渋谷から移り住んだ邸宅の跡地でした。
9月のブログで取り上げた言問橋は、関東大震災後の帝都復興計画で架けられた橋でした。
そして、10月のブログで取り上げた上野大仏は、関東大震災で頭部が落下し、寛永寺で保管されていたものを戦後になって再び安置したものでした。
特に意識したわけでないのに、半年間のブログ記事でも、これだけの関東大震災が絡んでいる施設があったんです。
ところで、さいたま市の大宮は「盆栽の聖地」と呼ばれているのをご存知ですか?大正から昭和にかけて、盆栽園が集積する「大宮盆栽村」が形成されたのですが、これも関東大震災と関係があるんです。
江戸時代、江戸の団子坂(今の文京区千駄木)には大名屋敷などに出入りしていた植木職人が多く住んでいました。明治時代になると、盆栽を専門にする職人も生まれました。
盆栽の栽培には良質な水と土、新鮮な空気が必要ですが、東京の都市化が進むと、栽培にはふさわしくない環境となったそうです。
そして、関東大震災で盆栽業者も多くが被災しました。
そこで、千駄木で盆栽園を経営していた清水利太郎という人が、盆栽の栽培に適していて、かつ交通の便もよい大宮の地に移住、その後、多くの盆栽業者も移り住んで、昭和3年に20名の盆栽業者によって大宮盆栽村組合が結成された、というわけだったのです。
盆栽村に移住する条件として、1.盆栽を10鉢以上持っていること。2.門戸を開放し、誰でも見られるようにしておくこと。3.二階建ての家は建てないこと。4.塀は生け垣にすること。を掲げました。
このようにして、景観にも配慮した、訪れた人にもフレンドリーな盆栽村が形成されたのです。
一時は35もの盆栽園があったそうですが、今は6つの盆栽園があり、誰でも見学することができるようになっています。
1989年には、大宮で第1回世界盆栽大会が開催され、日本はもとより世界の盆栽愛好家から大宮は「盆栽の聖地」と認識されているんです。
2010年には、盆栽村にさいたま市立の大宮盆栽美術館が開館しました。前々から気になっていましたが、今回初めて行ってきました。
【写真】JR宇都宮線(東北本線)の土呂駅から向かいました。途中、盆栽の絵と「盆栽村」と書かれた看板がありました。手前の信号機には、懐かしのシマシマの背面板がありました。
【写真】大宮盆栽美術館の入り口です。
【写真】和風のすてきなロビーです。この右側にチケット売り場とミュージアムショップがあります。
チケット売り場でチケット購入すると、まずコレクションギャラリーという建物から見学です。ここにさまざまな盆栽や座敷飾りの盆栽がありました。
私は建物の中にある建物が好きで、ギャラリー内に作られた床の間に盆栽が飾られた座敷飾りのコーナーがよかったです。ただ、ギャラリー内は写真撮影不可でした。
【写真】ギャラリーを出ると、盆栽庭園がありました。ここは写真撮影がOKでした。
【写真】盆栽が並ぶすてきな庭園です。
【写真】推定樹齢380年という、真柏です。
【写真】こちらの五葉松は、推定樹齢500年だそうです。
【写真】こちらはなんと、推定樹齢1000年の蝦夷松です!
【写真】クリスマスに近かったですが、さすがに盆栽美術館はクリスマス色は一切無しでした。こちらの白いいわしでの盆栽は、クリスマスツリーに見えませんか?見えませんよね。。。
すてきな盆栽の数々の中、「ヤバい盆栽」を発見!
【写真】これが「ヤバい盆栽」です。
【写真】いや「ヤバい盆栽」ではなく、「野梅(やばい)」の盆栽でした!
素晴らしい盆栽をたくさん見て感動したのですが、いかんせん、盆栽の予備知識が欠けているため、ものすごい低次元の駄洒落でまとめてしまいました。すみません。やはり、私は凡才だと自覚しております。
【写真】帰り際、ミュージアムショップを覗いたら、なんと、「大宮盆栽だー!!」というサイダーが売っていたので、思わず購入。思いっきり駄洒落商品でした!