現地に行っていろいろなものを見てくるフィールドワーク系ブログ

萬代橋の遺構が展示されている万代クロッシング。土木ファン、橋梁ファンなら行ってみる価値ありです!

探訪日:2024年(令和6年)2月27日(火曜日)

探訪番号:74

投稿日:2024年8月5日

ブログ分類:橋を渡るシリーズ #4

前回のブログでは、信濃川に架かる、新潟市のシンボルになっている「萬代橋」を渡ったことを書きました。

萬代橋の右岸は、万代シテイという繁華街になっています。そこに、1997年に完成した「万代クロッシング」という地下歩道があります。

萬代橋を通る国道7号線は交通量が多いため、歩行者の安全な通行を目的として、総工費49億円(国34億円、県12億円、市3億円を負担)をかけて造られました。

ところが、地上部分の道路にも横断歩道があり、また、現在はスクランブル交差点も整備されたため、この地下歩道を利用する人はかなり少ない、という現状になっているようです。

当初は800メートル先にある新潟駅まで地下歩道を建設し、直結する計画がありましたが、地盤が弱く断念。現在は、万代シテイのほんの一角の空間に留まっていて、市議会からは「巨大な穴」と揶揄される始末。

商業施設やイベントを行おうにも、法律的には道路にあたるため、関係機関との調整や、人が滞留できる施設の改修が必要など、それもできないようで、現状は有効な活用ができているとは言い難いスペースになっているのです。

東京だと、大きな道路の交差点では歩行者の横断歩道が撤去され、歩道橋や地下歩道を通って道路を渡る形式のところが結構あります。私は東京の街を散策するのが好きですが、そういう交差点でちょっと遠回りになるだけで「うわっ!」って思ってしまいます。

人間というのは、机上で考える以上にものぐさな動物で、歩行者というのはちょっとした遠回り、高低差でも避けてしまうもの。万代クロッシングのように、地上部分にも横断歩道があり、駅にも直結していないとなれば、利用する必然性はゼロ。

だから、こうした公共的な施設を造る際は、そうした人間の心理も十分考慮してほしいな、と思います。「土木心理学」のような学問の研究が進めばいいな、と思っています。

今回のブログの本題とはかなり外れました。この「巨大な穴」である万代クロッシングも、土木ファン、橋梁ファンにとっては、ぜひ訪れてほしい場所になっています。

というのも、万代クロッシングを建設する際、初代・2代目の萬代橋の基礎杭が発掘され、それが展示されているからなのです。

【写真】万代クロッシングの入り口です。

【写真】巨大な地下空間が広がっていました。ミサイル攻撃などに備えて、緊急一時避難施設に指定されているそうです。日本海側の都市は、外国からのミサイル攻撃にはより敏感になるのかも。

【写真】萬代橋の歴史を伝える展示コーナーがありました。

【写真】これが出土した旧萬代橋の木杭です。

【写真】萬代橋の歴史年表などのパネルと、模型の展示もありました。

【写真】現在の萬代橋は、県営の事業として建設されましたが、設計・施工は関東大震災の復興事業を行なった内務省復興局に委託。復興局の技師で、帝都復興計画で永代橋や清洲橋、駒形橋などを設計した田中豊の指揮で、東京帝国大学助教授の福田武雄が設計しました。

【写真】重要文化財の指定書や土木遺産認定プレートも展示されていました。

【写真】初代萬代橋の橋名板です。「伯爵柳原前光書」と書いてありました。柳原前光は公家出身の外交官で、元老院議長まで務めた人です。

【写真】前回のブログでも書いたように、かつての信濃川は川福が現在の3倍もあり、万代クロッシングのある場所にも橋が架かっていたのです。発見された木杭のうち3本は、出土した位置に設置されています。すばらしい保存・展示方法だと思いました。

初代の萬代橋ができるまで、信濃川の両岸地域では渡し船で行き来していましたが、それでは不便ということで、萬代橋が架けられました。設計者は、土木行政の基礎を築き、初代土木学会会長にもなった古市公威。いつまでも新潟の発展に尽くすことを願い、「萬代(よろずよ)橋」と命名されましたが、いつしか「ばんだいばし」と音読みされるようになりました。

なんと、最初は民間所有の橋で、渡るにも通行料がかかって、市民の不満も大きかったようです。

その後、明治33年に新潟県が買い取って県道となり、通行も無料となりました。現在は国道橋として国の所有となっています。

【写真】現在の萬代橋は全長が300メートルちょっとですが、木製の時代は800メートル近い全長で、当時は国内で最長の橋梁でした。右岸の橋詰だった流作場交差点には、レプリカの親柱と橋名板のモニュメントがありました!