探訪日:2025年(令和7年)3月24日(月曜日)
探訪番号:101
投稿日:2025年6月20日
ブログ分類:パワースポットめぐりシリーズ #19
前回のブログで、ついに100探訪を達成いたしました。それを記念して、「百」にまつわるスポットとして、東京都墨田区の「向島百花園」に行ったことを書きました。
今回のブログでは、その第2弾として、東京都新宿区にある「百人町」に行ったことを書きたいと思います。
百人町は、JR山手線の新大久保駅と中央・総武線の大久保駅を中心とした一帯の町名で、1丁目から4丁目まであります。
【写真】新大久保駅前の様子です。前の道は大久保通り(都道433号線)で、駅側が百人町1丁目、手前側が2丁目です。
【写真】新大久保駅から東側を撮りました。日本最大のコリア・タウンとして有名ですよね〜。
【写真】一転、北側の3~4丁目は閑静な住宅街となっています。公園や小・中学校、病院などもあって、1〜2丁目とは全く異なった様相の街となっています。
百人町の1〜2丁目は、戦前は閑静な住宅地として、多くの文人が居住し、また、クラシック音楽家も多く住んでいて、「音楽の街」「楽器の街」と呼ばれるようになり、戦後も楽器店やジャズ喫茶、ライブハウスが多くありました。
また、山手線のガード下には日雇い労働者や在日朝鮮人が住みついてバラック街を形成、さらに朝鮮戦争で朝鮮半島から逃れてきた人たちも住むようになって、1970年代には今につながるコリア・タウンが形成されました。
現在では、歌舞伎町に連なる繁華街となっていて、かつての閑静な住宅街の面影はなく、とくに昨今の韓流ブームで若い男女が多く行き交う街となっています。
一方、3〜4丁目は、戦前は陸軍技術研究所など軍事施設があり、戦後は東京教育大学(今の筑波大学)の研究所などがありました。現在は、東京山手メディカルセンターや桜美林大学のキャンパス、タワーマンション、都営住宅が立ち並ぶ地域となっています。
【写真】百人町1〜4丁目の住居表示の看板を撮りました。
ところで、「百人町」とは、ちょっとユニークな地名ですが、どのような由来があるのでしょうか?
実は、江戸時代、江戸城の西側を警護するために同心100人で構成された鉄炮組百人隊がこの地に居住していたのです。
【写真】新大久保駅から歩いてすぐのところに、皆中(かいちゅう)稲荷神社という神社がありました。
【写真】繁華街にあって、さほど大きくはない境内ですが、堂々とした拝殿がありました。
この神社は、天文2年(1533年)に稲荷之大神を奉斎して創建されました。
江戸時代になると、鉄炮組百人隊を統括していた与力が射撃の技術向上に精魂を傾けていたものの、なかなか成果が上がらず眠りに入ったところ、稲荷之大神が霊符を授けるという霊夢を見たそうです。そして、翌朝、その札を持ってこの神社にお参りした後に射撃の訓練をしたところ、なんと百発百中!
その話が広く伝わると、射撃のみならず、いろいろな願い事が叶う神社として信奉されるようになり、百発百中の伝説から「みんなあたる」を意味する「皆中」の名で呼ばれるようになったんだそうです。
【写真】いかにも当たりそうな絵馬を受けました。掛けられた絵馬には宝くじやギャンブルの願い事の他に、コンサートやスポーツイベントのチケットの抽選に当たるように、との願い事も多く見られました。