探訪日:令和7年(2025年)9月30日(火曜日)
探訪番号:110
投稿日:2025年10月15日
ブログ分類:庭園・植物園めぐりシリーズ #8
前回のブログでは、東京都中野区にある新井薬師をお参りしたことを書きました。
新井薬師から1kmくらいの場所に、国の名勝にも指定されている中野区立哲学堂公園というユニークな公園がありますので、行ってきました。
哲学堂公園は、東洋大学の創始者である井上圓了博士が明治32年に購入した土地に、東洋大学の前身となる哲学館の開校を記念して明治37年に建設した四聖堂を嚆矢として、15年ほどかけて整備された庭園です。昭和19年に東京都に寄付され、戦後は都立公園となり、昭和50年には中野区に移管されました。
井上博士は「諸学の基礎は哲学にあり」ということを信念とし、日本に哲学を広めた一人。哲学堂公園も、老若男女あらゆる人が哲学を学び、精神修養する場として開設したもので、世界にも類を見ない、とてもユニーク公園となっているのです。
【写真】公園は広大なためいくつかの入り口がありますが、正面口から入ってすぐのところに、哲理門がありました。この門は「妖怪門」とも言われ、門の両脇の金網から除くと、天狗像と幽霊像を見ることができました。
【写真】瓦の「哲」の文字がステキです。
【写真】哲理門から入ると、平らな広場があり、中央に四聖堂が建っていました。「四聖」とは、東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントという、世界的な四哲人を指しています。
【写真】四聖堂の前に、井上博士のレリーフもありました。井上博士は安政5年(1868年)、越後長岡藩(今の新潟県長岡市)の真宗大谷派のお寺の長男として生まれました。東京帝国大学哲学科の一期生として入学、在学中に哲学会を発足させました。
【写真】こちらの建物は、「宇宙館」です。哲学とは宇宙の真理を研究する学問、ということから、この建物で講話や講習が行われたそうです。
【写真】「哲學堂圖書館記」と書かれた石碑がありました。後ろには「絶對(対)城」という建物も建っていましたが、写真を撮り忘れてしまいました。万巻の書物を読み尽くすことは絶対の妙境に到達する道程である、とのことから、「絶対城」とは図書館のことなんです。
【写真】三角屋根の「三学亭」です。世界的な四聖堂に対し、日本の三道(神道、仏教、儒教)の研究家、平田篤胤、釈疑念、林羅山を称えた建物です。
【写真】傘のような屋根の「演繹觀」です。「論理に達する参観者は、ここで小憩してよろしく内省し、よく道理にあてはめて断定するようにされたい」との案内看板がありました。
【写真】妙正寺川沿いから四聖堂へはちょっとした丘陵となっていて、「認識路」という坂の小道がありました。案内板の文言は難しすぎて、無学な私には理解不能です。
【写真】丘を登ったところに、「意識驛」がありました。「丘上に達した観覚者は、ここでひと休みして認識路と直覚径を観ながら種々想念されたい」との案内看板がありました。
【写真】理想の彼岸に達するという「理想橋」がありました。
【写真】理想橋を渡ると、理想の遊具広場がありました。
【写真】硯塚と筆塚がありました。井上博士は全国各地に出向いて哲学の講義を行う「全国巡講」も積極的に行いました。その先々で揮毫し、その謝礼金を基金に哲学堂公園を建設したことから、その感謝のために建てられたものです。
【写真】中国の黄帝、インドのアクシャ・パーダ、ギリシャのタレスが刻まれた石碑「三祖苑」です。
【写真】唯物園では、きれいな花が咲いていました。
【写真】唯物園から登る坂が「経験坂」です。階段は経験を表し、唯物論の立論には理化博物等の実験をその考証とするすることによるものであるとしてこの名がある、と看板に書かれていました。
【写真】経験坂の途中に「感覚巒」がありました。経験のためには耳目等の感覚によらねばならない、ということを示しています。
【写真】哲学堂公園と、新青梅街道を挟んで向かい側に、蓮華寺というお寺があり、そこに井上博士の墓所がありました。井上博士は、大正8年(1919年)、巡講で訪れた中国の大連で病気で亡くなっています。
【写真】「井」の上に、円形の墓石。「井上圓(円)了」の名前を表しているんです。
さて、東洋大学といえば、おそらく今年、ニュースでいちばん目にした大学なのではないかと思います。
静岡県伊東市の市長が、東洋大学法学部を除籍になっているのに「卒業」と詐称したのではないか、という疑惑で、連日テレビのワイドショーを賑わせました。
市議会は百条委員会を設置し、全会一致で市長の不信任決議案を可決、一方の市長は市議会を解散するという対抗をして、結構なおおごとになりました。
しかし、私も含め世間的には「卒業証書チラ見せ」や「19.2秒見せた」など、市長と議会のコントのようなやり取りで、むしろ「おもしろニュース」として捉えていたきらいがありますよね〜。
この件に対し、東京大学出身の著名な実業家の方がSNSで「Fラン私大の学歴詐称なんかどーでもいいだろ」と投稿して物議を醸しました。
この「Fラン大学」という言葉、50代以下の大学受験を経験した方ならご存知の方も多いと思いますが、初めて聞いた、という方もいらっしゃると思います。
これは、大手大学受験予備校が、入試難易度別に大学をランキングし、S級を最難関として、以下A〜Fまでランク付けしたもの。つまり、「Fラン」とは「Fランク」の略で、入るのがもっとも簡単な大学群、ということになります。
この入試難易度の指標に使われるのがいわゆる「偏差値」というものですが、当然ながら文部科学省や大学協会といった公的機関から発表されているものではありません。
では、どうやって偏差値を算出するかというと、予備校が実施する模擬試験の受験者に志望大学を申告させ、その結果によって算出しているものなのです。
とは言っても、偏差値の指標が全く意味のないもの、というわけではなく、少なくとも偏差値の高い難関大学に合格するということは、高校の学習内容をしっかり習得して、基礎学力を持ち合わせている、という証明になります。
高校の学習内容というのは、人類が積み重ねてきた知識体系の基礎的なエッセンスであり、それを身につけているということはいろいろな応用が可能で、社会に出た時も有用な人材になることが期待できる、ということです。
そういう意味では、東洋大学は東大出身者から見れば「Fラン」と見下されても仕方がないかもしれないです。私も東洋大学と偏差値的には同程度の私立大学(法政大学社会学部)の卒業生ですので、反論の余地がありません。
ただどうでしょう。指導層として社会をリードする人材は難関大学出身者で占められるのは当然としても、しかし、それだけでは社会はなかなかうまく回らないと思っています。それを支える人材のボトムアップも必要だし、社会はなかなか複雑怪奇なので、いろいろな問題の解決には、難関大学出身者にはない知見や発想が必要な場面も多いかと思っています。その知見や発想は、東洋大学に入学できるくらいの学力があれば、十分活かせるものだと思っています。
それと、Fラン大学に行く意味はあるのか?という議論もなされることがありますが、私はあると思っています。たとえ入るのが簡単な大学で、4年間モラトリアムで過ごしたとしても、大卒者を増やすことは、日本の文化の裾野を広げ、国民全体の民度を上げることにつながるのではないか、と個人的には考えています。
むしろ、出身学校による偏差値の序列があることで、難関大学出身者は必要以上のプライドや万能感、Fラン大学出身者は必要以上の劣等感や卑屈感を持つことになって、日本全体の人的な国力はマイナスになるのではないかな、と感じています。
さらに言うと、前述の通り、大学の偏差値は模擬試験での志望大学という、いわばアンケートのようなもので決まっています。つまり、大学の人気投票のような側面もあります。
だから、華やかなイメージのあるミッション系の大学や、つぶしがきいて就職に強いと言われる社会科学系の大学の偏差値が高めに出る傾向にあります。
それゆえ、東洋大学や國學院大学、二松学舎大学といった、地味だが伝統があり、人文科学系の研究や教育に実績のある大学は偏差値が低めに出る傾向もあって、それが出身者の評価や大学自体の評価になっているのも、なんか違うな〜、と思っているんですよね。