探訪日:令和7年(2025年)10月30日(木曜日)
探訪番号:112
投稿日:2025年11月12日
ブログ分類:気になる建築物めぐりシリーズ #3
東京を代表する河川、隅田川。その名は古く、平安時代の文献にも登場するようですが、河川法による正式な河川名となったのは、1964年(昭和39年)と、意外と新しいです。
実は、もともと隅田川と、埼玉県から流れてくる荒川は同じ川だったのです。江戸時代は、千住より上流側を荒川、下流側を隅田川と呼んでいたらしく、さらに浅草付近では浅草川や今戸川、両国付近では両国川や大川などと呼ばれ、いろいろな名称があったそうです。
荒川・隅田川は蛇行した流路の暴れ川で、たびたび氾濫を起こしていたそうです。
そこで、現在の北区志茂付近の岩淵水門から隅田川の東側に人工の川(放水路)を造る計画が持ち上がり、1913年(大正2年)より開削工事が始まりました。
この放水路建設を指揮したのは、パナマ運河の建設にも携わった青山士という人で、なんと17年の歳月をかけ、延べ310万人の作業員によって、荒川放水路が完成しました。
現在は、荒川放水路が荒川の本流となり、隅田川は荒川の支流という位置付けとなっています。
荒川放水路の周辺には、旧中川や小名木川といった小さな河川がありますが、人工の大河である荒川放水路とは水面の高さに差があるため、船が行き来できるよう、1930年(昭和5年)に小松川閘門が完成しました。閘門とは、水面の高さが異なる二つの河川を扉で堰き止めて、水位を調整して船を航行させる施設です。
その後、陸上交通の発達によって水上交通が衰退したため、小松川閘門は1976年に廃止されました。
ところが、1995年に発生した阪神・淡路大震災では、ビルや橋の倒壊によって陸上交通は大きな被害を受けたため、救援物資や人員の輸送に水上交通が大活躍。
それ以来、水上交通の有用性が見直され、小松川閘門の近くに、2005年に新しい閘門である「荒川ロックゲート」が完成しました。
【写真】荒川放水路側の荒川ロックゲートです。見慣れない標識がたくさんありました。船の標識かな?

【写真】なんと、屋上まで登ることができました!

【写真】結構な高さで、柵の近くに行くと、足元がぞわぞわ、としました。目の前に広がるのは荒川放水路です。これを人力で造ったとは、人間の偉大さを感じました。

【写真】屋上まで着きました。

【写真】屋上からの眺めは最高です。


【写真】荒川放水路の対岸に、船堀タワーが見えました。次々回のブログで紹介します。

【写真】旧中川側の荒川ロックゲートを撮りました。水路の両脇は階段兼観客席となっていて、実際水路を通る船を座って見学できるようになっているみたいです。

【写真】旧中川側にも入れるようになっていました。

【写真】道に「LEVEL 5%」と書かれていました。

【写真】旧中川側の荒川ロックゲートです。船の信号機もありますね。こちらは屋上に昇ることはできませんでした。

【写真】荒川放水路側の荒川ロックゲートを撮りました。

【写真】旧中川です。

【写真】水位を測るスケールもありました。

〜おまけ〜
前述した小松川閘門の一部は、現在も大島小松川公園内に保存されていますので、行って見てきました。
【写真】公園の中に、堂々とした小松川閘門がありました。

【写真】2023年5月には、天皇陛下がこの閘門や荒川ロックゲート、次回のブログで紹介する中川船番所資料館をご視察されたそうです。陛下は、学習院大学で中世の瀬戸内海の海上交通について、英国オックスフォード大学ご留学時には、英国テムズ川の水運史をご研究されていたそうです。
